砂川:具志堅先輩、今日はよろしくお願いします。
具志堅用高氏:いや。こちらこそ。
砂川:具志堅先輩が芸能界で大活躍している事を誇りに思います。僕は18才の時に東京に出てきて「一旗揚げるまでは帰らないぞ」ということで色んな仕事をしていたんですけれども、当時は、アパートを借りても風呂もないし、電話もないし、テレビもないって時代で、セールスマンをして街を歩いているとき、具志堅先輩が電気屋さんのテレビで世界戦やっている時はずーっと立って、2時間も3時間も見て、具志堅先輩が防衛すると、すごく勇気をもらいました。そういう時代を経験したので、今日は、具志堅先輩と対談ができて光栄です。ただやっぱり、練習っていうんですか?相当厳しいものがあったと思うんですけれども、いかがでしたか?』
具志堅用高氏:ボクシングに出会ったのは、那覇。興南高校で、そこで初めてボクシングに出会って。テレビを見たこともないし、ボクシングっていうスポーツ…その、学校のクラスの同級生に、初めてボクシングクラブに連れていかれて、そこでボクシングやろうってそれがきっかけなんですよ。石垣島では、もちろんテレビはNHKしかないから、そういう試合なんかテレビで見たことないし、偶然なんですよね。辛いとか・・・なんていうの 我慢強さはやっぱり島で鍛えられたね。やっぱりあの時代の小さい時の食べたいもんがなかなか食べられなくてお菓子とか、ケーキとか。そういうのは本当にもう 年に何回かですよね。
砂川:僕は中国の西安って内陸の方に会社を作ったことがあったんですが、そこは昔は平原なんで、敵に責められないように、塀が3つぐらいあるんですけれども、塀って言っても、すごいんですよ。幅がもう、30mと40mぐらいあって、高さも何十メートルもあって「擁壁」ですよね。昔の人、重機もないのによくこんなもの作ったなって。ただ、そこの外にいる人たちは、木で枠を作ってトタンを載せて石を載せて飛んでいかないようにして。履いてるのもゴム草履みたいなものとかね。ちょうど僕が子供のころの石垣島みたいな。全くそんな感じでした。
具志堅用高氏:まだまだ、あの頃の石垣島に似ている国いっぱいありますよね。
砂川:それから「提灯行列」って言うのありましたよね。まだアメリカだったんで、沖縄を返せ!見たいな感じで、みんなで行進してましたよね。
具志堅用高氏:その話ね、最近雑誌の取材かなんかでやったんですよ。すごい覚えているんですよ。みんな通りっていうか、学校の前の大通りですけれど、そういうのやりましたね。それが小学校高学年のときだね。
砂川:それから東京に出てきたときは、『沖縄の人とアイヌの人は日本人じゃない』なんて言われてびっくりしてね。若干そういうのがあって、今だったら『そうかもしれないねって』言えると思うんだけど、当時は若いから、すごいびっくりして、傷ついたりしたんだけれど。今は沖縄もメジャーですね。安室奈美恵さんくらいからですね。
具志堅用高氏:社長も、石垣島の高校卒業して、東京なんですか?東京の時は、僕はちょうど世界チャンピオンになって防衛してるときじゃないかな。
砂川:そうです。片道切符ですね。
具志堅用高氏:ああ、もう学生割引とかでね、あのスカイメイトとか、そういう時代ですよね。へえ。東京のどちらだったんですか?
砂川:最初は新宿でしたね。
具志堅用高氏:新宿!ああ、じゃあ近所にいたんですね
砂川:東京と言ったら絶対新宿だなっていうのがあって。
具志堅用高氏:私は、上原兄弟っていう先輩がいて、先輩のアパートに三か月ぐらい一緒に住ませてもらって、幡ヶ谷からバイト先の飯田橋に通っていました。新宿も楽しかったですよ。チャンピオンになる前は大変でしたけれどね。チャンピオンになったら大分声かけられましたねえ。
砂川:そうでしょうね。
具志堅用高氏:沖縄の怖い先輩たちが、世界チャンピオンになって勇気をもらったとかさ、胸張って歩けたとかさ、そういわれてね。
砂川:僕もすごく勇気をもらいましたよ。あの街頭のテレビ見てね。すごく勇気もらったり力もらったりしたんですけど、具志堅先輩強いからずっと勝つじゃないですか。
具志堅用高氏:すごくはないんですよ。強くなるために練習を増やしたんですよ。
砂川:チャンピオンになってからも?
具志堅用高氏:チャンピオンになってからボクシング好きになったんですよ。それまでぜんぜん好きじゃなかったんですよ。
砂川:あはは、そうなんですか。
具志堅用高氏:苦しいばっかりですよ、苦しいというかお金がないから、沖縄に帰ろうかなってときもありましたよ。デビュー戦の時は。ファイトマネーも、一万五千かな。殴られて、痛い思いして、ボクシングの道具とかは全部、世界チャンピオンになってからですよ。
砂川:ああ、そうなんですか。
具志堅用高氏:それまでは、全部借りものです。ジムにあったものです。全部。ジムにあったグローブとか。だから、世界チャンピオンになったら楽しくてね。それで、練習が増えるんですよ。道具はいいモノがあるし、縄跳びもそうだし、どこにもない縄跳び。買うもの一つとっても、いい道具が使えたね。そういう中で、練習のメニューも違ったね。自分なりの練習キャンプができるような場所もみんな選んでくれて、それでこう、一生懸命朝早く起きて、走りこんだり、今まで、雨降ったら喜んで寝ちゃうタイプだから、雨降ればこう、ゆっくり休めるっていって。だけどやっぱり世界チャンピオンになったら雨降ってもさ、新宿の地下走ったり、4号線の高速の下を走ったり。僕のジムは千駄ヶ谷だったから、新宿周りでよくロードワークしたり、それで皇居を走ったり。だから、チャンピオンになってから雨の日も濡れない方法を考えたり、やっぱり勝ちたいっていうか、守らなきゃいけないっていうか。また、試合前はつらいけど、試合終わったら沖縄に帰る楽しみとか、ご褒美で海外旅行行ったり、そういうまた、つらい時もあるけど楽しい時もあるし、みんなにチャンピオンって呼ばれる喜びとか。そういうの見たら、やっぱり防衛したいっていう夢がありますね。
砂川:そうですね、防衛記録っていうのも破られてないですし。チャンピオンと2位だと、ボクシングの世界全然違いますよね。
具志堅用高氏:すべて違います。モテ方も違います。世界チャンピオンと日本チャンピオンのモテ方も違うし。世界チャンピオンになったらテレビ出演できるけど、日本チャンピオンではテレビはなかなか…出られないですよね。やっぱりいろんな人との出会いが素晴らしいですね。会いたい人に百パーセント会えますね。スポーツの頂点を極めたプロの選手とか芸能界の方、頑張っている企業の方々。そういうのを考えるとやっぱり一つの世界チャンピオンになれば いい出会いがあるなあというのもあったね。そういうのも(含めて)すべて勝たなくちゃいけないなっていう世界だったね。
砂川:僕も、もちろん沖縄県民も勇気をもらったんですけれど、最初のうちは防衛してくれると、うれしくて。ただ最後の方は、具志堅先輩あまりにも強いから、見てて、この人こんだけ人ぼこぼこにしてね、いっぱいお金もらってて、いい商売だなあって最後は思ってたんですけど
具志堅用高氏:(笑)あの、ボクシングっていうスポーツっていうのは、僕の芸風的にはあの、相撲部屋っていうか、規則っていうかそんな感じですね。アメリカと違って、ボクシングは部屋をもって、選手を作って、試合をさせる。相撲部屋も、相撲部屋に所属して、土俵入りを一緒にする。移籍はできないというか。ボクシングも、あのジムに行きたいなと思ったら、ジムの会長っていうのは、普通じゃなかったね まあ、相撲部屋の親方も怖かったと思うけど、ボクシングのジムの会長はこわかったね…。ただね、世界チャンピオンになったら、ファイトマネーと別に、ほかのものが黙ってお金が入ってくるんだね、わからないけど。黙ってっていうか、ジムの会長にパーティーがあったから、これ、どこどこからお祝いとか 僕のスポーツのコマーシャル、CM出たからCMのギャラっていうか、これいくらとか、意外とあったんですよ。テレビとか、いろんなもので。
砂川:やっぱり派手になったんですか?生活は。
具志堅用高氏:税金払わなくちゃいけないから。だから使わないで貯金してたのよ。分かっていたんですよ、今年これくらい払わなきゃいけないって。ファイトマネーから だけどテレビ出演とか、CMとか、ああいうのはキャッシュ的なギャラ(?)でいくらぐらいか分からなかったですね。
砂川:僕も仕事をして、お金もらうんですけれど、お金は使うとなくなっていって、残高ないなってことになるんですけれど、ただ、仕事で技術が増えてきて、それでまたお金を稼いだりできるっていうね。だから、お金と、技術っていうの両方が貰っているものと思うんですけれど、具志堅先輩もファイトマネーと、あと知名度っていうんですか、有名になって。また、今も芸能界で活躍されているのっていうのも一つの給料っていうか、ファイトマネーっていうかね。そういう風なものかなって思うんですけれどね。
具志堅用高氏:現役時代はいろんな経験して、(いろんな)自分を作り上げたスタッフだとか、やっぱりすごかったと思うね。いいチームで、私はいいボクシング人生を送ったなと思いましたね。だから、最初から最後まで、同じトレーナー、指導者のもとでやりましたね。だからそういうのがやっぱり、恵まれたっていうのもあるし、チームでやったっていうのが。すごい今、活きていますね。
砂川:いいパートナーに恵まれたっていうことですよね。海外なんて言うとあれですよね、マイクタイソンも、カス・ダマトさんなんていうトレーナーがいて、ただ途中で決別してからおかしくなっちゃいましたね。
具志堅用高氏:ボクシングでは崩れなかったけど私生活で崩れたってことですね。
砂川:ええ。おかしくなってね、もう…
具志堅用高氏:いやいや、日本も一緒。まあ海外はもっとひどいけどね。世界のナンバーワンに入るんだけどフィリピンのマニー・パッキャオも、彼はもうフライ級からスタートして五階級取ってますけど彼の実家っていうかね 本当もう漁師の町なんだけれど、そこでもやっぱり苦労したっていうか、そこで自分の体を作ったっていうか それが世界中で勝ち続けて それでやっぱりあのパッキャオの周りのチームも何十人といるんだけどさ、やっぱりいい指導者に恵まれていますよね。
砂川:私生活でも寄付したりなんかしてね、ちゃんとしていますよね。パッキャオは飛びぬけていると思うんですけど、僕は、シュガー・レイ・レナードとか、トーマス・ハーンズとかハグラーとかね、あの辺も好きでビデオで録っていたんですけど、具志堅先輩は、世界チャンピオンで好きな人って誰ですか?やっぱりファイタータイプが好きですか
具志堅用高氏:ファイターもそうだけど綺麗なボクシング、できてる…あの、(アレクシス・)アルゲロ、あとパナマのロベルト・デュランとか、あれがやっぱり凄かったねえ。やっぱり日本国内では大場政夫さん、私がチャンピオンになる前にチャンピオンになった輪島功一さんだね。
砂川:沖縄の話に変えていきたいんですけども、僕は18才まで石垣にいたんですけれども、具志堅先輩は興南高校に行かれたっていうことで、やっぱり逆に言うとボクシングに関わるトレーニング時代とか、苦しいこと、楽しいこと、結構、沖縄本島にも思い出は多いんじゃないですか?
具志堅用高氏:まあいっぱいありますよね、興南高校の三年間は。ただ やっぱり 僕の人生はね 運命的な出会いがいっぱいありましたけどね…。八重山商工で受験合格してたらボクシングと出会ってないし、そのまま石垣島にいますね。興南高校があるから行くかっていってそれで、行ったら行ったで学校がつまらなくて、スポーツもクラブも入りたくて、入れるクラブがないんだねえ。それでまあ、ボクシングクラブに入っちゃったんだけど。それでもやはり、なかなか沖縄の、那覇の都会の環境になれなくてね。それで上原兄弟の風呂屋の銭湯でね、下宿して。そこは、ふろ場の手伝いしたら下宿代がタダ、おふくろの仕送りしてくるのがタダになるし。食事も、かからない。ただ、試合で遠征とか、ああいうところに行くときにお金が必要でね。それくらいだったんですね。それでまあ三か年間頑張ったっていうかね。
砂川:神様が導いてくれたような。
具志堅用高氏:そう、結び付けてくれてるようにね。
砂川:石垣島には年に何回ぐらい帰られるんですか?
具志堅用高氏:まあ、最低一、二回は行きます。テレビの仕事で、ロケ行ったり。
砂川:今はまたボクシングとは違った芸能界でね、活躍されているんですけれど、そこらへんはまたガラっと違う世界じゃないですか?
具志堅用高氏:そうですね、もともと僕はあの、チャンピオンになってからそう感じたんですよ。みんなに見られるのが好きなのよ。見られたらファイトがわくっていうのは現役の時からあったんですよ。後楽園ホールで2000人のところで試合するのと、一万人くらいのところでは闘志が違うんですよね。だから、テレビの場合もやっぱり、みんなに見られているなって感じで、テンションが上がるんですよ。また、全国にロケも行くもんで、ロケでいろんな人と話ができたり、地域の名物の食べ物とかね、そういうので楽しくやってはいますけどね。
砂川:例えばあの、人前でロケをすると緊張すると思うんですけど、例えばボクシングで一対一で、何万人の前で戦う時の緊張と比べたら全然ね、慣れという意味では、撮影されることぐらいは全然平気ですよね、たぶん。
具志堅用高氏:それはね 慣れなんだけど テレビも番組が全部違うから、大変ですよ。ボクシングはグローブはめて、打たれたら痛い!っていうスポーツなんだけど、それはそれでまた大変だけど、テレビはテレビで…非常に頭使います。頭とタイミング。あとはその場所の空気。仲良くなるっていうことも大切だし。
砂川:芸能界は、片岡鶴太郎さんでしたっけ。勧めて入るきっかけになったのは。
具志堅用高氏:ある番組でご一緒して、本格的なタレント活動したのも、片岡鶴太郎さんのお陰ですね。だから、人生はどこでどうなるか分からないし、どこでどういう方と出会うかっていうのも、本当一瞬ですよね。だからそういう中で自分を伸ばしていくっていうか。それは僕は本当に不思議なんだよねえ。やばいってときもありましたけどね。でもやっぱりまたいいことがあったり、チャンスだったりピンチだったり。鶴太郎さんとの出会いは本格的に 今のテレビの活動は 間違いなかったなと思いますね。
砂川:スポーツ選手、特にボクシングのね、元チャンピオンの方々はやんちゃな人で、事件起こしたりする人もいるんで… その中で、具志堅先輩は愛されキャラですよね。すごいみんなに親しまれているんで。見てても安心なんですけどね。
具志堅用高氏:最近の現役世界チャンピオンはみんな愛されていますね。あのー山中ちゃん 内山チャンピオン。本当にね、一試合一試合が勝負だから、最高の一試合を勝てば、また自分の人生が変わったり、あるんですよ、ボクシングっていうスポーツは。最近は、若い子は環境がすごいから、使う道具もすごくいいのができているから、科学的なトレーニングで、すごいんですよ、世界に通用しているんです、日本の選手が。今、海外よりも日本選手の方が強いかなって気もするんですよ。軽量級は。だから今国内に10名も超えてるかな。現役の世界チャンピオン、昔は一人二人だったからねえ。だけどもやっぱり、みんなね性格がいいんですよ。普段はおとなしい、優しい、よくしゃべる、根性はあるし我慢強いし、練習をよくやる。それは昔の選手より今の若い子のほうが多いかな。練習量も。
砂川:具志堅先輩のような目指すものがあるから、みんな頑張れるみたいなものがありますよね。
具志堅用高氏:やっぱり、夢を持っていますね。目標、大きいイメージですよね。日本チャンピオンも勝ち取って、おっしゃー、今度世界だっていう、そういうなんか大きい気持ちを持ってる人が多いね。日本の若い子は。目標さえ、自分で持ち続ければ、頑張れるかなって感じしますよね。
砂川:我々は、全然違うITっていうコンピューターの世界なんですけども。うちも、石垣島の方に研修施設みたいなものを作って、子供たちに無料でコンピューターを教えようっていうのでそういう活動もやっているんですよ。
具志堅用高氏:自分も今からでも遅くないですか?
砂川:(笑)大丈夫ですよ。
具志堅用高氏:現在ですね、IT、やればできるかなって、いっつも思っているんですよ、僕、今の若い子がスマホいじっているのを見て、これオレできないかなって思って準備はできているんですよ。いろんなもの買い占めたんですよ。スマホを使っているんだけど、いっちばん優しいので使えてたんですよ。
砂川:一緒に何かできるといいですよね。石垣島の子供のためにね。
具志堅用高氏:そうですね。海外行くのも多いけれど、海外でもどうしても必要なんだもんね。
砂川:今後、何かコラボレーションして、石垣島の子供たちのために活動ができたらいいですね。
具志堅用高氏:自分も夢は持ってますね。これから先、石垣島でなんとかできるといいなと思ったり。石垣島から世界に発信できたらいいなってそう思っていますね。